エゴと向き合う
音楽の力
音楽が始まる瞬間。
この甘美な時間に、いつもすっかり心を奪われてしまう。楽しく、苦しく、甘く、切ない。およそ人間の心から湧き上がるほとんどの感情がこの瞬間に詰まっているのではないかと思うほどだ。音楽は今から始まり、いずれ終わる。それを知っているから、その曲に詰まった生命力そしてその演奏者が託す思いをすべて感じようと細胞がざわざわする。
これがために人は音楽に魅入られる、とりこになる。いい演奏を聞くと”魂を吸い取られた”と言うことがあるが、この大げさとも思える例えは他に都合のいい表現がないからではない。影響力のある音楽をきくとき、実際に魂を吸い取られてすっかり違う自分になっていることがある。人によっては明るく前向きに、しかし人によっては暗くシニカルに、それまでの魂を吸い取られすっかり入れ替えられてしまうほどの力が音楽にはある。
だからこそ、自分が演奏する側に立ったときには聞いて頂く方にはその音楽の力を十分に味わって欲しいと願う。それは僕が音楽から受け取ってきたものに対するささやかな恩返しでもある。奏者として音楽に託した気持ちが観客に伝わるなら、練習の苦労は吹っ飛ぶ。
今回のクリスマスコンサートではその願いが完全に裏目に出、破綻した。
今も思い出すたびに顔から火が出そうな体験。ただ僕のこの悲惨な体験が誰かの役に立つかもしれない。コンサートから1週間足らずしか経過しておらず心の傷は生々しくかさぶたも取れてない。ただ、この傷は折に触れてその痛みを思い出したほうがいい傷であるという直感はある。それは誰の心にも幾つかある傷で、それ自体が人格の一部となっているような傷。
奈良の実家で日本酒を鎮痛剤として舐めながらこの年の瀬にキーボードを叩く。
20年弾いた曲、2週間しか弾いてない曲
今回のクリスマスコンサートは、前回のコンサートと同様バイオリニストの田中知子さんとのコンサート。10曲程度のレパートリーを1時間少しでこなす。場所は前回のコンサートと同じセントラル・シティホール。100人少しが座れるキャパの小さな、しかし観客席と近いおかげでアットホームな素敵なホールだ。プログラムは新しいレパートリーを数曲入れただけで、他はちょっとしたギグで弾いてきた馴染みのある曲が残り。難易度はそこまで高くはない。
一つだけ新しい点は、僕の5分程度のピアノソロ曲があることだ。フェイ・ウォン(王菲)の我願意というロマンチックな曲のピアノアレンジだ。この曲は20年前に僕が大学生のころに香港にハマるきっかけとなった曲で、事あるごとに弾いてきた大好きな曲。この曲は完全に自分のものにできている自信があった。なにせ20年弾いていて飽きない。
一方プログラムの中には2週間しか準備期間のない伴奏曲ものがあった。上手に弾ききる自信はなかったものの、一つ一つ音を確認してどういう響きを作っていけばいいかを自分なりに考えて練習した。2週間しか練習していないだけに”板につく”までには今回のコンサート以降もさらに研鑽の積まねばならないが、ソリストの田中さんが要求する水準まではなんとか持っていける。
コンサートが始まった。
2週間しか練習していない曲では、練習期間が短かったわりには頭の中がわりとすっきりと整理され「次はこう弾く」というのが音符とともに頭の中に再現された。多少のミスはあったものの、目の前で鳴るピアノの音をフィードバックし曲の表情を変えてみるという冒険をする余裕も、ミスしてもそれを含めて自分自身だと言い聞かせる余裕もあった。音楽は最後まで流れて、田中さんともども拍手をいただけた。有り体に言うと、うまくいった。
プログラムの中盤、僕のソロ曲の番。
20年弾き続けた思い出の曲。間の取り方、盛り上げ方。それら含めて曲の細部まで丁寧に表現できる。もちろん楽譜はいらない。寝てても弾ける。グランドピアノの蓋が全開となり、僕はピアノ椅子にすわって少しだけ目を閉じる。すぐに弾き始めるのでは、聞いている方たちに音楽が始まる前のあの素敵な瞬間を味わってもらえない。僕の好きな曲をたっぷり聞いてもらうには、ちょっとした演出が必要なのだ…
そして20年間そう弾いてきたように、わざとらしくゆっくり鍵盤に指をおろして弾き始める。
しかし。
開始20秒、前奏が終わるころ妙な違和感を感じる。出したい音が出ない。そんな強いタッチで弾いているわけではないのに音はカンカンと硬質で、割れて聞こえる。試みにペダルを必要以上に長く踏んでみるが音が汚く濁っただけで期待した効果は出ない。今弾き終わろうとしている前奏は幻想的で、例えるなら霞がかかった遠景であるべきなのに、実際に出ている音は騒々しいコマーシャルのBGMのよう。どうしよう。こんな演奏では僕が20年親しんできた曲が台無しだ。
僕が聞いてもらいたいのは、こんな音じゃない!
右脳が演奏を拒否し始めた。同時に僕の指はたちまちもつれた。なんとかコントロールを保とうとしたが、一度拒否した右脳は指に全く指示を伝えない。両手が体から切り離されているような感覚。次はラだったか? それともドだったか? 思い出せない。しかし僕の左脳は「20年も弾き込んだ曲で間違いが起こるわけがない」と演奏を続けることを要求した。演奏を拒絶する右脳と演奏を続けたい左脳が大喧嘩を始める。とはいえ肝心の音楽はすでに死んでいる。そんな中、あるイメージが頭の中に生まれた。
僕は浜辺を背にして首くらいまで海水につかっている海の中にいる。もう数歩進めば完全に顔が沈んで呼吸が出来ずに溺れ死ぬ。それが分かっていながら進まざるを得ない。そんな状況に追い込まれている気分になった。
そんなイメージが頭に浮かび上がった後、脳みそがハレーションを起こした。頭の中で何か白いものがスパーク、喉が干上がり、全身が心臓になったのではないかと思うほど脈拍が大きい。海の中に完全に沈み呼吸ができなくなる前に、脳みそが白旗をあげた。そして演奏が完全に止まった。想像の中で溺れ死ぬことと引き換えに。
エゴが産んだ惨事
「ごめんなさい、曲忘れちゃいました」
最後の力を振り絞って鍵盤から手を離し、茫然自失の状態で客席に向かってようやく絞り出した言葉がこれである。その瞬間の僕の顔をカメラで撮れば、フラッシュ焚かずとも真っ白に写っただろう。次にこみあげてきたのが恥ずかしさ、怒り、惨めさ、情けなさ。自分には全く生きている価値がないように感じる、最悪の瞬間。しかしこの場をどうする。観客に「忘れちゃいました」と言ったその後はどうする。
結局、「もう一回同じ曲弾こう」と決め、寝てても弾けるはずなのに本日のソリストの田中さんに楽譜を持ってきてもらい譜めくりをお願いした(ソリストに譜めくりをお願いするなんて聞いたことがない。どういうロジックでそう思い至ったかは自分でも分からない。人はパニックになると本人でも全く想定していない行動に出てしまう)。
どういうふうに弾いたかは記憶にないが、音が鳴って最後まで弾いたということは自分の指は動いていたのだろう。
プログラムは進行する。曲の合間のたび先程の記憶が蘇って引きずり込まれそうになるが残りの曲をなんとかこなし、コンサートは終わった。聴きに来てくださった方からのフィードバックはおおむね好評だったようだ。ようだ、と書いているのは今この時点で自分のあのソロ曲の評価を聞くのが怖すぎて聴きに来てくれた方に直接「どうだった?」と聞く勇気がないからだ。
曲の途中で止まるのは、音楽的には大惨事である。なぜこの大惨事が起こったのか。これは、今のところ自分のエゴが原因だと考えている。
“我願意”にあまりに思い入れが強すぎて曲を意地でも組み伏せてやろう、魂を吸い取られるような良い演奏を聞かせてやろうとする欲、エゴがあったことは間違いなく、一方で2週間しか練習しなかった曲にはエゴはなかった。というより、エゴを曲に塗り込められるほど余裕がなかった。
演奏を思うがままにコントロールしたい。そのエゴが今回の惨事の原因ではないか、というのがおぼろげな結論だ。しかし演奏をコントロールしたいと思うことは演奏者として当然の欲求ではないのか?
エゴを手放す
音楽であれ何であれ、人は生きていくうえで何かを表現する。そしてどんな表現でも熟達に至る道がある。人によってはその表現が仕事の成功であったり、ボランティアでより多くの役に立つことだったりする。その表現方法の熟達を望むのは人として素晴らしいことだ。そういう前向きなエネルギーこそが人を勇気づけ、ひいては社会を活気づける。
ただ、そのエゴが行き過ぎて「コントロールしたい」から「コントロールできるはず」に変わってしまえば、要注意だ。そのエゴはコントロール対象との健全な関係を損なう。コントロールできるはずのことに失敗した場合、対象に怒り、憎み、それを手放してしまう。
この「コントロールしたい」と「コントロールできるはず」は文章にすると自明の境界があるように感じるが、実際の運用においてはその境目はかなり微妙だ。大人になって、いろんな事象をコントロールできるようになってくると「したい」から「できるはず」が多くなる。
今回の演奏も自分にとっては「できるはず」だった。エゴが先に出て、何が何でもコントロールしてやる、自分にはそれができるという驕りがあった。
これが示唆することは大きい。
日々人は自分をコントロールしている。懸命に働くよう自分をコントロールし、抜け目のない判断ができるよう自分をコントロールし、誰かからの評価が上がるよう自分をコントロールする。そのコントロールには「向上したい」とか「より成功したい」というエゴが含まれている。それは決して悪いエゴではない。絶え間ないコントロールを通じて自分という人間を鍛錬していくプロセスは建設的で健康的なエゴである。
ただそうやって生き慣れると、傲慢になる。知っていること、できることに虚心坦懐でい続けることは難しい。日本人ピアニストの内田光子がよく言うように「ピアニスト本人は、自分が演奏する曲を初めて聞く曲のような新鮮な驚きをもって演奏しなければならない」というが、そんな境地に達することなんて一生かかってもできそうにない。弾けば弾くほどほど「よく知っている曲なんだからコントロールできるはずだ」というエゴが必ず頭をもたげてくるからだ。
それでも、今回のエゴがコンサート中に出て悲惨な体験をしたのは良かったと思う。万能感に近い自信を抱えてステージにあがり、1分も経たないうちに自分はこの世でもっともみじめで無力な人間だと感じる機会はそう多くはない。そして来て下さった方には誠に申し訳なく思う。自分のエゴのせいで聞きたくもない音を聞かせ、見たくもない醜態を見せた。ごめんなさい。
音楽が始まる瞬間。
どれだけ練習を積んだ曲でも、その瞬間にできればエゴを手放していたい。もちろんそれは簡単ではない。これからも折に触れて今回の痛みをしっかりと思い出していきたいと思う。
書いてる間に日本酒を一合空けてしまった。皆様、よいお年をお過ごしください。