Tomoko’s Violin Diary 第一章ヴァイオリン物語5
ー愛知県立芸術大学入学
2年間の厳しいレッスンの末、受験の日がやってきた。
この時期が一番私は痩せていたと思う。苦労したんだなあ。
実技試験、聴音のテスト、ソルフェージュのテスト、楽典のテスト、共通一次最後の年の学科試験もクリアして、愛知県立芸術大学に入学。
これに落ちたら即浪人だったから、合格発表の時は気絶するほど緊張した。ふぅ〜。
実技試験もかなり緊張したけれど、大きな粗相もなかった。火事場のくそ力ってあるある。
ー大学生活
入学したばかりの頃はやはり緊張との戦いだった。
声楽科、管楽器科、ピアノ科、作曲科、彫刻科など色々なお友達ができて、それなりにみんな自分の弱いところを克服しようと頑張ってる姿が以前より見えて、仲間なんだなあという意識が出てきて肩の力が少しづつ抜けていった気がする。
好きなバイオリンも弾けて、室内楽もできるようになり、楽しかった。
作曲科の人に新曲の演奏を頼まれたりすると、’’嬉しいなぁ、私でもお役に立てて’’と演奏する喜びは増していった。
バイオリンを人前で弾きたい!と思えるようになるために、緊張を克服するために、バイオリンを弾くバイトを本当に沢山入れた。名古屋フィルハーモニーのエキストラでは常時呼ばれるようになった。(これを音楽用語で常トラという。)ラッキーなことにこの頃はバブルの時代。週に3回はパーティーや、結婚式でバイオリンを弾くバイトも入っていた。初見でピアノトリオとかも弾かなければいけないし、かなりスリリングなお仕事ではあったけれど、それなりに度胸は付けて頂いた。結構ちゃんと聞いてくれないお客の前で弾く時に、
’’このシャンパン持った偉そうなおじさんたちを振り向かせるような演奏をするには?’’とか結構考えてたし、一生懸命演奏していたと思う。この頃から誰かのために弾くって良いなあと思うようになり、ほんの少しづつではあったけれど人前恐怖症は薄れていった。
その代わり、学校に行く時間がなくなってはいた。いろいろと、授業に出れなかったりして、コンピューターサイエンスの先生に呼ばれて、’’田中さん、単位いるんですか?”と優しい眼差しで聞かれた時には非常に申し訳ない思いをした。
大学3年くらいから将来のことを考えだす。どうやってプロとして生計を立てていきたいのか?大学院に行くのか?

ーエマーソンカルテットの公開レッスン
大学時代、弦楽四重奏にはかなり時間を注いで勉強した。
当時お世話になっていた進藤先生の影響は大だった。
よく怒鳴られた。笑 でもアンサンブルの息遣いや、合図の出し方など細いところを本当に辛抱強く教えて頂いた。とても厳しかったけれど、レッスンはとても好きだった。必ず東京にご挨拶に伺おうと今も思っている。
大学4年の時、弦楽四重奏団エマーソンカルテットの公開授業を受けた。もちろんカルテット(弦楽四重奏)のレッスン。第一バイオリン、第二バイオリン、ヴィオラ、チェロ4人にそれぞれ一人ずつコーチがつく。
その時の先生4人の対応が威圧感のない好感のもてるレッスンで感動。
’’お国が違うとレッスンの時のアプローチも音楽の表現も違うんだなあ’’とレッスン後にしみじみと思ったのを覚えている。
世界に名の通る、エマーソンカルテット、彼らの演奏はまた素晴らしいものであった。特にアンサンブルが絶妙だった。この時に4人一緒に呼吸することなど改めて教わった。ゼスチャーは極めて大きくと。この影響で、アメリカも良いなあと思い出した。